信心いうたら、なんでもかんでも、相手の言うことをまともに受けて、相手の話を鵜呑みにすることとちがう。
信心してる人の中には、他人(ひと)の言うことを、そのまま信じてしまう人がある。それでよく、欺(だま)されたということになるのや。
念法では「智慧勇猛にして不退転の位に住す」というて、明るい智慧を仏さんからいただいているので、他人に欺されないのや。
わたしは今まで、よう言うてきた。
「なぜ人に目が二つあり、耳が二つあるか。それは一つの目で見て相手を信じてしまわないで、もう一つの目で見直すのや。よく観察すると、最初は“ええ人やなぁ”と思うた人でも、どこか欠点が見えてくる。また、耳で他人の話を聞いて、一方の耳で“ええことやなぁ”と思うても、もう一つの耳で聞き直してみると“この話はワナが仕掛けてあるなぁ、うかつには乗れんなぁ”ということがわかってくる。何もかも疑ってかかれ、というわけではないが仏さんにしっかりお縋(すが)りしていると明るい智慧をいただくので、このような相手の心がわかって、滅多に欺されるということがないのや。これが念法の信心なのや――」と。
何でも他人に施しをすることが善いことや、と決めてかかったら善いことが悪いことになったりする。
元気な体を持った若い男が、物貰いをして生活(くら)しているとするねん。身に汗して働くことが嫌いなものやから、怠けて物貰いして暮らしてるのや。こんな男が、自分の家の裏口へ来て、「金や物を恵んでくれ」と言うたとする。
世間の善人という人は、「ああ可哀相に――。若いのにこんな物貰いをせねばならんのは、よほど体が悪いか。事情があるのやろ。さあ、お金もあげよう、この衣類もあげよう――」言うて、いたわるねん。
そうすると、この男は「人間は欺しやすいものや」と、いよいよ他人の善意をあてにして怠け心を増長させることになる。これは本当の親切とちがうと思うねん。
この場合、わたしやったら、「お前のような、元気な体を持った男に恵んでやる金などないわぃ。お金がほしかったら、身体で稼いだらええ。世の中の者すべて一人前になったら、自分で稼いで生活(くらし)を立ててるのや。若い元気な体を持っていて、他人の善意をあてにして遊んで暮らそう、というその根性を叩き直せ。身に汗して働くことを覚えるのや。そしたら一生、暮らしに困ることはない。お前みたいな奴に、びた一文も恵んでやる金はない。とっとと立ち去れ!」
と言うて追い返す。
これちょっと無慈悲や、と思うか知らんけど、この男、わたしの悪口聞いて腹を立てて、何くそ、今に見返してやるぞ、と発奮して一生懸命に働いて自立できたとしたら、これが本当の人助けになってるねん。お金を恵んでも、その人はそのお金のある間だけは助かっているが、そのお金を使い果たしたら、また苦しまねばならん。正しいおしえを説いて、身に汗して働くことを覚えさせたら、その人は生涯生活に困ることがない、ということになる。
そうかといって、誰にでもこの方法が通用するかというと、そうでない場合もあるねん。どうしても、たった今、金品で助けてあげねばならんときもあるのや。
このような場合の判断を誤らないためにも、常に仏さんにお縋りし、いつも仏さんと2人づれ、同行二人の心を失わず、“おしえ”の一つひとつを忠実に実行して、心明るく、正しい暮らしをすることや。そうすると、その都度仏さんが一番正しい判断を教えてくださる。このように、いつも明るい智慧に導かれて、正しい生活をするのが念法の信徒なのや。


